つれづれ日記 ー2011年 3月ー

NEW! 2011/03/21

<感じる!デッサン論・5>

   ーアトリエー

 

アトリエとは、

作品を生み出す装置である。

 

そして、

モデルとの一期一会の場であり、

真剣勝負のリングであり、

克己のための道場である。

だから、襟を正して入りたい。

 

あまりピリピリする事もないが、

適度な集中力を維持する必要がある。

そういった姿勢は、やがて周囲に伝播し、

アトリエに静謐な時間が流れ、

全体が心地よい緊張感に包まれるはずである。

 

そうすると、いつもより良いデッサン

が描けたりするものだ。

 

ここで余談。

カエルを熱湯に入れるとビックリして飛び出すが、

水に入れてからジワジワと温度を上げると、

気づかぬ間に煮殺されてしまうという。

 

アトリエも同様である。

 


2011/03/19

<感じる!デッサン論・4>

    ー心 眼ー

 

五感で感じろと言われても

「眼で見て描く」ことしか出来ないのでは?

と言う人がいる。

 

確かに眼で見て描くのだが、

それでは視覚しか働いていない。

五感で描くとは?

 

考える必要はない。感性を研ぎ澄ませば、

モデルの立ち出る衣擦れの音を、

抱きしめたときの手触りを、肌の温もりを、

シャンプーの香りを、感じるはずである。

(注!実際に抱きしめてはダメですよ)

 

ではどうするか?

それは「記憶」である。

 

誰だって「体験」しているハズである。

視覚で得た情報に、自らの体験を重ね合わせるのだ。

 

見たものを写し取るだけではデッサンとは呼べない。

デッサンとは、状況の盲目的な引き写しではなく、

複合的「再構築」なのだ。

 

つまり、

「心の眼」が「捉えたところのもの」

を表現することなのである。 

 


 

2011/03/09

<感じる!デッサン論・3>

     ー初 動ー

 

「感じ方がわからない」と言う人がいる。

そんな事はないはずだ。なぜならば、

絵を描かない一般人でも日常的に「感じて」いる。

 

例えば、好きな人を見たとき。純粋に

「カワイイ!」とか「カッコイイ!」と感じるだろう。

 

同様に。

モデルがアトリエにスッと立ったとき、

何かを「感じる」はずである。

その「初動の感動」を表現するのだ。

 

ところが、絵を描く人間であるのに。

さあ「描くぞ!」という段になると

突然「測量」を始めてしまう。

え~コメカミより1センチほお骨が出っ張っていて、

そこから斜め下に行ってアゴ・・・右目はコメカミ

から2センチ離れてて左目は・・・。

描き始めて1分と経たぬうちに「初動の感動」

はどこかに消え去り、測量に終始する。

 

あげくの果てに。

コレは「正確」に描けた、と悦に入り、周囲も

あの人は正確だ。だから「デッサンがウマイ」などと言う。

改めて、その「デッサンらしき絵」を見直してほしい。

そこには、「空っぽのマネキン人形」や「図鑑のイラスト」

が認められるはずである。

 

最後まで「初動の感動」を忘れてはならない。

それを表現することこそがデッサンなのだ。

 

むかしの人は良くいったものである。

「ホトケ作って魂入れず」と。

 

2011/03/05

「感じる!デッサン論・2」

   ーデッサンとはー

 

デッサンとは、

対象(モデル)を直感的に捉え

身体(および腕)の運動によって

紙(支持体)に表現すること。

 

インスピレーション、モーション、エクスプレッション

の連動。ただそれだけ、である。

 

だからこそ、描き手の本質を如実に曝け出す。

 

極めて短時間に対象の本質をつかみ、

小手先でない身体の運動によって、

それを「表現」しなければならない。

 

デッサンとは、

決して、お手本を真似ることではない。

それはただの「モノマネの名人」である。

 

決して、アウトライン(輪郭線)をなぞることではない。

それはただの「測量の達人」である。

 

決して、スタイル(画風)を保守することではない。

それはただ「達者」なだけである。

 

まず、

モデルの放つ躍動感、体温、生のエネルギーなどを、

全身で「感じ」なければならない。

それは考える予断を許さない。

 

五感で感じ取ったものを瞬発的に手で身体で

支持体に叩き込まなければならない。

 

その凝縮された呼吸の一瞬が画面に注入された時、

デッサンに生気が溢れてくるのである。

 

2011/03/03

<感じる!デッサン論・1>

    ー定 義ー

 

「デッサン」を言葉で定義することは難しい。

しかし、絵を描いている人間であれば

「なんとなく」は認識できるはずである。

 

これから論ずるデッサンは、日本では

「クロッキー」と呼ばれる事の多い10分や

5分間といった短時間で描かれる絵の事である。

「素描」や「スケッチ」とも呼ばれる。

基本的に、対象(モデル)の印象を短時間で

「素直に捉える」事を旨とする。

 

いわゆる「美大受験的」石膏デッサンのような

明暗法による彫刻的デッサンは除外する。

 

また、クレーやバスキアのような素描も除外する。

(これらはまさに「穴場スポット」を見つけた例である)

従って、クレーやバスキアやコクトーを指向する

「感じる!デッサン論」を見る必要はない。

「我が道」を行けば良い。

 

当然の事ながら、抽象(表現)や概念芸術とは

全く別話である。

 

ごくごく普通の「クロッキー」をイメージして

頂ければ結構です。

 

2011/03/01

<感じる!デッサン論>

   ー序 文ー

 

考えるな、感じるんだ。

 

モデルを感じ取れ、全身全霊で。

受け止めろ、そのオーラを。

一滴たりとも逃すな、その吐息を。

それを取り巻く空気を。

 

五感を研ぎ澄ませ。

感性をキンキンに尖らせろ。

 

魂を解放しろ。

羞恥心など捨てろ。

見栄も、面子も、煩悩も。

 

自我さえ忘却しろ。

モデルしか存在しない宇宙

が現出するまで。

 

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